現地駐在員 森脇祐一(2007年11月時点)
忘れられない光景がある。といってもそんなに昔のことではない。つい2ヶ月ほど前のことである。8月初旬、FIT(トンド・スモーキーマウンテン2を支援するボランティアチーム)が最初の派遣団をスモーキーマウンテン2に送り込んだ。6日間という短い滞在期間ではあったが、その間、住民との交流会、ホームステイ、ゴミ拾い体験、家庭訪問、ACCE(アクセスの旧称)スタッフやSSDN(スカベンジャーの現地住民組織)との議論など、内容の濃い滞在であった。私も、スモーキマウンテン2・プロジェクトコーディネーターのチトと一緒に、準備過程から関わった。
滞在最終日、多目的保健センターでFITとSSDNのメンバーがお互いに滞在の感想を伝え合っているときのことである。SSDNの代表をしているリトさんがFITメンバーに対し次のように尋ねた。「6日間の滞在を終えて、今後も私たちといっしょにやっていこうと思うか。それとも、もう関わるのは止めようと思うか。」
FITメンバーが「もちろん、今後も関わりつづけたい。今回滞在することで、ますますその思いは強くなった。また是非来たい。」と答えると、リトさんはそれ以上言葉が続かず、その場にいた他のSSDNメンバーも泣き出した。タガログ語-英語の通訳をしていたチトも、FITメンバーも涙を止めることができなかった。
中島みゆきの歌の一節に「一人で泣くことはできても、一人で笑うことはできない」というような表現がある。二人でいること、すなわち他者との関係の中で初めて、笑うという生を肯定する行為が可能になるということをテーマにした歌だったと記憶するが、裏を返せば、泣くこと、人生の哀しみや苦しみを背負うことは、一人でもできる、というよりもむしろ基本的に孤独な行為であらざるをえないといえるだろう。哀しみは誰とも共有できない。ひとりで引き受けなければならない。それは、ひとりひとりの存在が身体を基盤にしており、生・老・病・死といった人生の根本的な苦しみが身体の苦しみとしてあるがゆえに、その苦しみ・哀しみを他者と共有し得ないからである。
だが人間には想像力があり、他の人々の苦しみを共有することはできないが、その苦しみを想像し共に苦しむことはできる。愛するものと別れなければならない苦しみ、愛するものの苦しみに接する苦しみは、まさに苦しみを想像し苦しみを共に苦しむことのできる力が人間にあるからこそ、生まれる苦しみであろう。
そして、こうした苦しみ・哀しみは、それがどんなに苦しく哀しいことであろうとも、すでに孤独ではない。
FITの若い友人たちがスカベンジャーの人たちと共に流した涙は、むろん哀しみの涙ではない。新しい出会いの中で創りだされた新たな協働関係-世界の変革を目指す創造的な関係―を祝う友情の涙だ。
こうして、FITに限らずACCEに参加してくれている若い人たち、スタディーツアーに参加する人たちが、貧しい中で日々苦闘している人々と国境を越えて知り合い、友人になり、共感の気持ちを持ち、いわば「苦しみを共に苦しむ」とき、生きることの哀しみを共有するとき、そのたびに「世界」は、たとえどんなにわずかであっても、確実に変わったのだと感じる。
こうした一人一人の体験の積み重ねこそが、この世界から貧困を無くしていくための最も重要な基盤を形成するのだと確信的に思う。そして、そうした場を提供する仕事ができることを、とてもうれしく思う。
(ニュースレター『となりのアジア』2007年11月号 vol.95掲載から転載)