国境を越えて 第8回:非当事者として貧困問題の解決に取り組む(5)

アクセス常務理事 森脇祐一

以下の文書は、2011年10月から2013年8月まで、国際経済労働研究所機関誌「Int’lecowk」誌上に「未来への扉-国際協力NGOの活動から見えてくるもの」と題して15回にわたって連載したものである。

連載『国境を越えて』

第1回:ボランティアという活動 ─ 当事者運動と非当事者運動の出会いが生み出す「共」性
第2回:国際協力とボランティア性
第3回:フィリピンの貧しい人々
第4回:非当事者として貧困問題の解決に取り組む(1)
第5回:非当事者として貧困問題の解決に取り組む(2)
第6回:非当事者として貧困問題の解決に取り組む(3)
第7回:非当事者として貧困問題の解決に取り組む(4)
◆第8回:非当事者として貧困問題の解決に取り組む(5)

前回(第7回)は、筆者の所属する団体(以下「アクセス」)が携わるプロジェクトで、文化や価値観の違いに起因するトラブルの一つとしてマパヤパの事例を紹介した。今回は、そのような問題にどのように対処しているのかを示すことを通じて、国境を越えたボランティア活動の持つ可能性について考える。

こうした問題が発生したとき、取りうる態度は論理上次の三つが考えうる。一つは、原理的にペレーズ現地の文化や価値観を尊重しなければならないという立場である。この場合、実践的にも現地の慣習的なやり方に任せることになる。二つ目は、原理的にはペレー ズの文化・価値観を否定し、それを長期的に変えていくことをめざすという立場に立つが、短期的な実践としては種々の妥協を受け入れるという立場である。そして、三つ目は原理的にペレーズの文化・価値観を否定し、実践的にも妥協しないという立場である。

このように考えると、アクセスがとった態度は二つ目と三つ目の中間ということになるだろう。ペレーズ現地のやり方を批判し別のやり方を持ち込んでいるのだから、その意味では三番目の立場に近い。原理的にペレーズ現地の文化や価値観をすべて尊重するという一番目の立場ではない。また、実践的にも妥協することなく基本的にアクセスの言い分を通す結果になっているが、他方日本から訪問することも含めて現地で話し合いを持つ努力を行い、また家族中心の組織運営をしたからといってその当事者を処分するようなことはせず、中心的なメンバーとしてなお認めている点、さらに同じような問題が形を変え今後も繰り返し起こりうると考え、その度に同様の対応をしなければならないと認識しており、長期の課題として考えている点では完全に三番目の立場だとも言えないからである。一般的に言って、この種の問題に対するアクセスの態度を定式化すれば、二番目の立場ということになるだろう。

こうした態度に対し、次のような疑問が生じうる。ペレーズの人々とは異なる社会背景と価値観を持つ日本人、しかも先進国の一員でありかつてフィリピンを軍事侵略しペレーズを占領し住民を支配・虐待・殺害したことのある日本人、貧しい人々と比べると豊かで力を持っている日本人が、自らの価値観を持ち込みペレーズの住民の価値観を否定するというようなことを行っても良いのか? 行って良いとするなら、一体いかなる根拠に基づいて正当化されるのか? そうした行動はあってはならないことではないのだろうか?

文化相対主義の意義と限界

一般的に、人は自己の生まれ育った文化の価値体系を正当かつ自然なものと考えてしまいがちであり、異文化に直面すると、自己の文化を基準にして判断してしまうため、不自然、不合理、まちがったものとみなしやすい。そうした態度が高じて、自己の文化や価値観が絶対的に優れているとみなし、それを基準にして他の文化を遅れている、劣っていると考える自民族中心主義が発生する。特に16世紀以降、植民地支配を拡大し続け、近代文明を生み出した西欧においては、西欧的文化や価値観を絶対的に優れているとみなし、それを基準にして非西欧的な文化や価値観を遅れたもの、劣ったものとみなす西欧中心主義が生まれた。日本人の間に現在もなお根深く存在するアジアの人々に対する蔑視感もそうした意識の表れと言ってよいのではないか。

こうした考え方に対する批判として、文化相対主義という考え方が提出されてきた。文化相対主義とは、二つの異なる文化の間で、どちらが優れている・劣っているとか、どちらが進んでいる・遅れているとかではなく、原則的には全ての文化が平等に尊ばれるべきであるという考え方であり、そこから更に、文化の違いや多様性が存在することこそが価値のあることであるという多文化主義的な考え方が市民権を持つようになってきた。自民族中心主義や西欧中心主義に対する批判として、文化相対主義の果たした役割は大きい。

だが、日本の考え方や価値観も一つのあり方、フィリピンの考え方や価値観もまたしかり、という相対主義の立場からは、マパヤパに発生した「問題」のように二つの文化・二つの価値観がぶつかり合い、しかも一つの実践方針を決めなければならない場面において、いかに判断し行動すべきなのかという基準は出てこない。二つの異なる文化・価値観を持つもの同士が共同のプロジェクトを実践していくためには、基盤となる一つの共通の価値観が必要なのであり、相対主義や複数主義では、価値観の対立は止揚され得ない。

そうかと言って、私たちは、日本社会では当たり前であるということを根拠として、それをペレーズの人たちに押しつけることはできない。こうした態度も自民族中心主義であると言わざるを得ない。他方、ペレーズの、あるいはフィリピンの家族中心主義といった伝統的な文化や価値を私たちの活動の基盤に据えることもまたできない。

つまり、私たちは、出来合いの価値観や文化の「優劣」を判断し、そのいずれか「優れた」ものに依拠することによっては問題を解決することはできない。私たちに問われている問題は、<フィリピンの価値観対日本の価値観>という二項対立図式を乗り越えて、フィリピン人と日本人との間の共通の基盤となる新しい価値観を模索し生み出すことである。相対主義の積極的な役割を認めその意義を掬い上げながらも、私たちはその先に進まなければならない。

地球市民として共通に大切にすべきもの

それでは、アクセスの活動が導きの糸とすべき、新たに生み出されるべき価値とはいったいどのようなものか。それは、いわば「地球市民」によって共有されるべき価値とでも言うべきものでなければならないだろう。むろん、「地球市民」によって共有されるべき価値なるものが、ア・プリオリに存在しているわけではない。それは、異なった文化を持つ市民同士が国民国家の枠や国籍を越えて実際に共同の生活や共同の事業を行う中で、自分とは違った価値観や文化とぶつかり、たとえ時に衝突や対立に発展しようとも、なお相手との共同の生活や事業を大切にしたいと願う時、相手の価値観や文化を鏡として自らの文化や価値観の特殊性や民族性に気付き、相対化したうえで、初めて新たに創り出されるものだろう。

前回紹介した「マパヤパの目的」は次のように述べている。「私たちマパヤパは、マパヤパ会員のシンプルライフを実現するために、より貧しい隣人がシンプルライフを得られるように、努力する。」 ここに示されているのは、フィリピンの伝統的な家族中心主義的な価値観ではなく、「より貧しい隣人のために」という新たなコミュニティ観である。むろん、こうしたコミュニティ観を言葉で確認するだけでは力を持たない。マパヤパの活動をはじめとする様々なプログラムを通じて、家族中心主義でなくても生活していける物質的基盤を地域コミュニティをベースに形成していくことが不可欠である。そして何よりもプログラム受益者一人ひとりが主体的に、活動や組織運営に参加し、民主主義を実践すること、その力を地域にも拡げていくことが不可欠である。

そしてまた、海を越え国境を越えて「より貧しい隣人」を想定するとき、こうした価値観は、私たち日本人にとっても共有されるべき価値観と言えるのではないだろうか。

アクセスは、原理的にはペレーズの文化・価値観を否定し、それを長期的に変えていくことをめざすという立場に立つと述べた。そして、日本人がそんなことをしても良いのかと自問した。私たちがペレーズ現地の文化や価値観を否定するというとき、それは、決して日本人の価値観や文化を基準として、フィリピン人の価値観や文化を裁断することではない。それは、生み出され、実現されるべき「地球市民」の価値観や文化を基準に、より良い明日を共に創り出すために批判を行うということでなければならない。そしてその批判は、私たち日本人の価値観や文化に対しても同じように向けられることになるだろう。

その時、私は、生活する中で無意識的に身につけてきた日本人としての価値観を全て脱ぎ捨てることが正しいことだとは感じていない。日本の現状やあり様については回を改めて述べようと思うが、否定すべき点・改善すべき点も多々あると思う一方で、肯定すべき点・誇って良い点もあると思う。そもそも、自分が身に付けた価値観を全て脱ぎ捨てることはできないと言うべきであろう。種々の価値観やイデオロギーを取捨選択しながら人は自己という主体を形成するのであり、それを全て脱ぎ捨てるということは全く別の人格になることに等しい。日本人としての自己を引き受け、身に付けた価値観を相対化しつつ、新たに創造されるべき「地球市民」としての価値観をも身にまとい、その両者を融合させていくこととなる。

それでは、このような「地球市民」の価値観とは、いったいどのような内容を持ったものであるべきなのか。この問いに十全に答えることは私にはできない。それは、全世界で進行中の、そして今後ますます拡大するであろう異文化間の共同事業・共同生活のなかで、ますます豊富に、時に悲劇的な結果をも伴いながら、生み出されるべきものであるからだ。

そして、NGOなどに示される市民の国境を越えた活動が発展し、市民による異文化間の共同事業が推進される中で、今後ますます「公」にも「私」にも回収されない国境を越えた市民の「共」的空間が拡大され、「共」的価値観(=「地球市民」の価値観)が形成されることは間違いない。アクセスの活動もまたそのようなものとして、そのようなものを目指して、行われている。

(第9回に続く)↓↓↓

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