国際協力NGOの立場から考える戦争と平和(第1回)

サンフェルナンド「死の行進」博物館にある展示物。日本軍の捕虜となったフィリピン人・アメリカ人兵士が、目的地の収容所に向かうまでの間、バターンからサンフェルナンドまでの約60km、炎天下での徒歩行進を強いられた。

森脇祐一(アクセス常務理事・事務局職員)

毎年八月になると、新聞やテレビなどのマスメディアは第二次世界大戦に関わる記事や番組を取り扱う。それは、単に70年以上も前の出来事を懐古的に振り返っているだけではなく、現在進行中の戦争と平和の問題をめぐる国際的・国内的状況に通じるものがあると、多くの人が感じているからであろう。

私は、国際協力NGOの一活動家として1991年からフィリピンの貧困問題に関わってきた。本稿では、フィリピンという、第二次大戦中日本軍の侵略をうけた国で活動してきた立場と経験から、戦争と平和について考えようと思う。

NGO(非政府・非営利組織)として活動することの意味

スペイン植民地時代に建設された、サンチャゴ要塞。日本軍統治下では地下牢として使用され、日本軍に従わないフィリピン人をこの要塞の地下牢に閉じ込め餓死させる、または灯油をまいて焼き殺したと言われています。

NGOとして活動するということは、日本という国民国家の国益のためではなく、また企業-たとえそれが「社会企業」といわれる「社会問題の解決に取り組む企業」であっても-のため=経済的利益を得るためでもなく、国境を超えた市民の益、地球市民益のために活動することを意味する(と、少なくとも私は信じている)。

むろん、現在、「地球市民」という対等な権利を持つ「市民」が世界中にフラットな状態で存在しているわけではない。一人一人は国民国家によって分断され、「国籍」を与えられ、その権利は所属しているとみなされる国民国家によって保障されるのみであって、例えば外国に居住するなど自国の国家によって権利を保護されない状態に置かれる場合、その権利は国内にいるときと同等には保障されない。その上、それぞれの国民経済・国民的生産力には力の差があり、それに応じて政治的・軍事的・文化的力の差も存在していて、一人一人が実際に享受することのできる権利の幅も異なる。しかも、国民的生産力同士の力の差は、支配-従属関係を生み出し、支配-従属関係がさらに国民的生産力の差を拡大する構造になっていて、異なる国民国家内の「市民」同士が所属する国家に応じて享受する力の差はどんどん拡大していく現実がある。1990年代以降、日本国内でも経済格差が広がり、貧困が問題になってきているが、それでもなお、私のような日本では最下層に分類されるような収入しか得ていない者でも、同じ収入でフィリピンで生活すれば、裕福とは言えなくとも、食べること住むことに困らないそこそこの生活ができてしまう。円に象徴される日本の国民的生産力が、ペソに象徴されるフィリピンのそれよりもパワーを持っているからだ。

私は、フィリピンの貧しい人たちとかかわり続ける中で、上で述べたような対等ではない「市民」の現実があることを学んだ。そして、異なる国家の「市民」同士が助け合い、協働し、国境を超えたネットワークを形成する中で、対等な権利(形式のみならず中身においても)を持つ「地球市民」を形成したいと思うようになった。日本の市民とフィリピンの市民が対等な「地球市民」となるためには、相互の理解と尊重が不可欠であるが、その際日本人である私たちにとって重要なのが、a) 自国の都合、先進国の都合で歴史と世界を見るのではなく、フィリピンのような発展途上国と呼ばれている貧しい国の立場から歴史と世界を見ること、b) 貧しい国の中でも、貧しい人々、より力を持たない人々の立場から歴史と世界を見ることだと思っている。

本稿でも、こうした観点から戦争と平和の問題を考えることになる。

フィリピン住民一人一人の視点から第二次大戦を考える

マニラ市内にある米兵墓地。米軍側についたフィリピン人も埋葬されている。

第二次世界大戦中、フィリピンでは百万人以上の人がなくなったとされている。 日本軍による残虐行為を、ある日本人研究者は次のように伝えている。


フィリピン国民は日米という大国の狭間で戦禍に巻き込まれ、人生を翻弄された。日本軍は当初、「比島民衆ヲ米国ノ支配ヨリ解放シ大東亜共栄圏ノ一員トシテ比島人ノ比島ヲ建設」するためにフィリピンを占領したと喧伝したけれども、その占領支配は多くのフィリピン人にとって抑圧的で過酷なものであった。あるフィリピン人ジャーナリストは終戦直後に次のように書いている。「日本軍による侵略、そしてそれに引き続く占領は余りにも恐ろしいものであった。日本占領時代の三年を経て、また集団拷問や集団処刑、略奪、焼き払い、強姦を経験した後には、フィリピン人は日本人をもはや人間と見ることをやめ、殺すべき相手、地球上から除去する対象として見るようになった」。


フィリピン人の日本人へのまなざしは、この上なく厳しかった。米軍に降伏した日本兵に対し、フィリピン人は怒りに任せて投石し、日本語で罵詈雑言を浴びせかけた。憎悪の裏には、日本軍の圧政と残虐なふるまいがあったが、多くの日本人には、憤怒の理由が分からず、戸惑うばかりだった。現地住民との関係を築いていた在留邦人でさえ、日本への送還を前に、マニラ周辺で目の当たりにした光景にショックを受けた。彼の手記にはこうある。「老いも若きも顔をひきつらせて、声をかぎりに怒鳴っている。首をちぢめて、両手で耳をおさえても、罵声はあとを追ってきた。私は、こんなにも憎しみをあらわにするフィリピン人を見たことがなかった。戦前からこの地に住み、フィリピン人と親しく付き合ってきた私には、想像もできないことだった。一体誰が、一体何がこのような事態を招いたのか。私は頭を抱えてうずくまり、悲しみに身を震わせていた」。

永井均「他者の戦争経験へのまなざし―フィリピンの日本人戦犯問題をめぐって」『広島平和研究所ブックレット』

フィリピン人の日本人へのまなざしについて、戦車第二師団工兵隊所属矢野正美上等兵の1945年12月10日付日記は次のように述べているという。


何のためか列車が野原の真ん中に停車したので、ホッとしてシートを取ると、住民達はここにもいっぱいいて相変わらず石を投げる。一人の老婆が近寄ってきて、ハポン(日本人)、マニラ、パタイ(死ね)と云いながら、ビンロウの実をかんで、真っ赤な口から血のようなツバを飛ばし、憎しみを込めて叫ぶ。肉親の誰かでも殺されたのか、あるいは家を焼かれたのか、家財でも奪われたのであろう。“お前たちはマニラで殺されるんだ”そう繰り返している。彼等もまた、大きな戦争の犠牲者であろう。私たちもあのサンフェルナンド上陸以来、比島の住民達にして来た事を考えてみると、その罪の大きさを思わずにはいられない。殺人、放火、強盗、強姦、ありとあらゆる罪を重ねて来ている。彼等との戦争でもないのに、何で彼らに大きい被害を与えたのであろう。何でこの遠い他国まで来て戦ったのであろうか。あの老婆の憎しみが分かる。私たちは本当に罪人であろう。

永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』講談社選書メチエ

フィリピンで、フィリピン人のスタッフや住民たちと日々事業を行っている私たちにとって、「百万人」の犠牲者とは、ただ単に百万という抽象的な量を示す記号でイメージされるものでは済まない。

一方で、日々共に過ごしている彼ら・彼女ら一人ひとりの、肉親や親しい人を殺されたという具体的な経験と記憶-悲しみと怒りと憎しみの記憶-が存在している。私たちが現在活動しているペレーズでもマニラでも、住民たちは旧日本軍によって略奪・強姦・殺害など本当に残虐な仕打ちを受けた。前アクセス・フィリピン事務局長のジョスエ・ロヨラは、父親が旧日本軍の拷問を受け、半身不随になり、そのために、戦後、一家は大変な苦労を強いられた。そうした経験と記憶は、親から子へ、子から孫へと語り継がれる。

他方で、日本人である私たちは、そうした彼らのまなざしの中で、彼らと共に活動する。ロヨラも「アクセスで仕事を始めるまでは日本人が大嫌いだった」と私に打ち明けたことがある。ロヨラのまなざしは、そう打ち明けた前も後も、同じだろう。私は、彼らのまなざしに、それと自覚していようといまいと、さらされ続け、今もそれは変わらない。変化があったとすれば、日本人である私-たちのまなざしであろう。私-たちのまなざしの変化に触れたからこそ、彼は「大嫌いだった」と打ち明けてくれたのではないだろうか。それに伴い、ロヨラのまなざしも複合的になったというべきか。以前からのまなざしに、新たなまなざしが加わったと思いたい。

私たちは、このように、お互いのまなざしが交差する中で、日々、共に活動を作ろうとしている。

こうした人たちと協働するために最低限必要なことは、歴史的事実を知ることである。そして、残念なことに、スタディツアーでフィリピンを訪問する若い学生たちのほとんどが、第二次世界大戦中に日本軍がフィリピンで、アジアで何をしたか知らない。

日本軍が侵略し、拷問し、犯し、殺した事実を知ること、そして率直に非として認めることが前提だ。そして、二度と同じ過ち、自国の軍隊が、他国で、フィリピンで、住民を殺す過ちを繰り返さないことを誓い、そのために最大限の努力を行うことである。

そうした基盤の上に立って初めて、私たちは現地の住民や職員との信頼関係・協働関係を築くことができる。

この稿、続く。