国際協力NGOの立場から見た戦争と平和(第4回)

森脇祐一(アクセス常務理事・事務局職員)

前回はフィリピン植民地支配をめぐるスペイン国家権力とカソリック教会との争い、エンコメンデーロに代わって台頭したカソリック修道会による土地と民衆の支配と搾取の様子、および18世紀までのスペイン重商主義と植民地フィリピンとの関係について述べた。

今回は18世紀半ば以降進展したフィリピン経済の世界資本主義との結びつき、およびその中で進行した大土地所有制の形成についてみていくこととしたい。

アクセスの元事業地・ピナツボでサトウキビの収穫にあたる人びと

資本主義の成立とフィリピン植民地経済の変容

18世紀半ばまでのスペインによる植民地支配は重商主義に基づくものであった。重商主義とは、国家の冨を金・銀といった既に貨幣として流通していた鉱山資源をたくさん保有することととらえ、金・銀の獲得を経済政策の主眼とする考え方である。絶対王政のもとで官僚や軍隊の給与、宮廷生活の維持などの財源が必要となった国王によって採用され、金や銀、あるいは香辛料など高値で売れる物産を産出する地域を排他的に支配するために植民地を獲得することが追求された。

フィリピンの場合、前回見たように、ガレオン貿易の中継地および他の諸帝国との戦争への出撃拠点としての位置しか持たなかったが、それでも排他的な重商主義的政策の下の置かれたため、他の西欧諸国によるフィリピン経済とのかかわりは、公式には認められなかった。

だが、18世紀のイギリスにおける産業革命とそれに伴う自由貿易主義の影響力の拡大により、植民地フィリピンは新たな段階を迎える。18世紀後半には、スペイン政庁により、フィリピンの農産物資源を組織的に開発しようとする努力が始められた。スペイン本国との直接の貿易が始まるとともに、それまで外国との貿易を妨げてきた多くの制限を撤廃して、植民地の商業関係を拡大しようとする試みが開始された。砂糖、タバコ、藍、アバカ(マニラ麻)などの商品作物の栽培が奨励され、1785年にはフィリピン農産物の投資、生産、輸送を行うために王立フィリピン会社が設立された。

フィリピンにおける通商の自由化は、1813年のガレオン貿易の終了、1834年の王立フィリピン会社の廃止によって達成された。マニラ港は世界貿易のために開かれ、フィリピン経済は世界市場と直結された。その主要なアクターはイギリス人と中国人であった。

マンチェスターやグラスゴーの工場から大量の綿織物がイギリス人商会の手によって輸入された。また、砂糖の圧搾機などの機械類も輸入された。中国人は輸入商品を買い取ってフィリピン国内で先住民に販売し、他方砂糖、藍、タバコ、マニラ麻、コーヒーなど輸出向け農産物を買い取ってイギリス人その他欧米の商会に販売した。

こうした流通過程の形成により、地方の先住民居住地域に貨幣経済が浸透し、農産物の地域的特化が進行した。輸出用商品作物生産の奨励のため、商会は生産者に融資を行った。商品作物の需要が増大するにつれ、スペイン系の商会が、次いで中国人が、プランテーション方式(単一作物の大量栽培)による生産を組織し始めた。また小規模先住民生産者から生産物を買い集めた。

大土地所有制とアシェンダ(大農場)の形成

輸出用商品作物経済の発展により、土地所有は地位の象徴となり、新しい富の獲得手段となった。大規模な土地所有が進展したが、その梃子となったのが「買い戻し契約」である。買い戻し契約とは、金の借り手が借りた金と同額で将来買い戻すことができるという条件付きで、貸し手に自分の土地を引き渡す契約のことで、借金人は、金を借りている間、金貸しの小作人もしくは借地人となった。だが、借金人が土地の買い戻すことができるだけの金を貯める可能性はほとんどなかった。買い戻し契約による貸付金は実際の土地価格の3分の1から2分の1に過ぎなかったので、貸付人は土地を安く手に入れることができた。

買い戻し契約を利用して所有する土地を拡大していったのは、中国人と先住民の混血である中国人メスティーソであった。彼らは、中国人との間で、商業上の覇権をめぐって激しく競争した。中国人が1755年の非キリスト教徒に対する追放令で国外追放を余儀なくされ、追放令を免れた5000人の中国人もマニラに活動の範囲を限定された間、中国人メスティーソは大いに経済力を蓄えた。スペイン政庁が1850年に追放令を解除したため中国人が戻ってくると、両者は真っ向から衝突することを避け、中国人が沿岸貿易や卸売業に復帰する一方、メスティーソは仲介業を放棄して、大土地所有への道を進んだ。

砂糖価格を急騰させたクリミア戦争(1854年-56年)と、1869年のスエズ運河の開通による欧州市場とマニラとの交通距離の短縮により、輸出用商品作物の生産は一層促進された。農業への機械の導入と、生産物の港湾までの輸送を容易にした交通機関の発達という二つの要因により、砂糖・タバコ・マニラ麻などのプランテーション農業はさらに有利なものとなった。

スペイン統治下におけるフィリピン大土地所有制の形成

以上、3回にわたって、16世紀以降のスペインによるフィリピンの植民地支配の歴史を、土地と人々の搾取と支配という観点から見てきた。

スペイン統治下で大土地所有制の形成の原動力になってきたのは、まずは、初期の征服者たちで徴税権などを認められたエンコメンデーロ、スペイン国王から派遣された行政庁の役人たちであったが、やがてキリスト教カトリック教会諸派の修道会が大きな土地所有者となっていった。国王からの下賜や国王領の購入のほか、免罪符としての寄進や相続、廉価での土地の購入、高利貸しによる土地の抵当としての差し押さえ、そして公然たる横領など、政治的・経済的・宗教的なありとあらゆる力を駆使して、経済的利益の源泉たる土地所有を拡大していったのである。

やがて、産業革命と自由貿易の時代になると、商業的な力を蓄えてきた中国人メスティーソが台頭してくる。彼らは、海外市場での販売を目的とした商品作物の大規模な単一栽培(プランテーション農業)を組織するために大農場(アシェンダ)の開発を進め、それにより更なる経済的力を得た。「買い戻し契約」という名の高利貸しが土地取得のための大きなテコとなった。

国王の下賜や国王領の購入によって形成された大アシェンダは、後に相続人の間で分割が起こり、小さなアシェンダに区分された。中国人メスティーソはこうした小規模なアシェンダを多数取得して、20世紀まで事実上スペイン人に代わる大アシェンダ所有者となった。彼らが集積した小規模なアシェンダの総面積は、19世紀末年にはスペイン人が所有したアシェンダの総面積にほぼ匹敵した。

レナト・コンスタンティーノ『フィリピン民衆の歴史Ⅰ』P174

こうして経済力を蓄え、新たな知識層・指導層となっていった中国人メスティーソが「フィリピン人」としての民族的自覚を高めることで、スペイン植民地からの独立を求める革命闘争の流れを生み出していくことになる。

他方、こうして形成された大土地所有制=大農場(アシェンダ)が、21世紀の現代にまで続く、フィリピンにおける農村の貧困の再生産の原因となっているのである。

この稿、続く。

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