森脇祐一(アクセス常務理事・事務局職員)
1931年から45年までの日本軍による中国大陸および東南アジア諸国への侵略戦争を、欧米諸国により植民地支配されていたアジアを解放するための戦争だとして擁護する人たちがいる。
私は、本連載の第1回目において、次のように述べた。
「日本の市民とフィリピンの市民が対等な「地球市民」となるためには、相互の理解と尊重が不可欠であるが、その際日本人である私たちにとって重要なのが、a) 自国の都合、先進国の都合で歴史と世界を見るのではなく、フィリピンのような発展途上国と呼ばれている貧しい国の立場から歴史と世界を見ること、b) 貧しい国の中でも、貧しい人々、より力を持たない人々の立場から歴史と世界を見ることだと思っている。」
こうした立場に立つとき、冒頭に記述したような日本の戦争についての理解は、私には決して受け入れられるものではない。私の立場から見ると、日本が行なった戦争は次のように見える。
- アジアの人々にとって、欧米諸国による近代植民地支配はいかなる意味においても正当化されるべきものではない。植民地支配による「開発の恩恵」なるもので正当化できはしない。
- 日本の侵略戦争、あるいはそれ以前の台湾や朝鮮半島などの植民地支配は、日本の主観的意図はどうあれ「アジアを解放」するためのものではなく、欧米諸国に代わって日本が支配者になるためのものであった。
- アジア諸国の民衆を欧米諸国および日本による植民地支配のくびきから解き放ったのは、それぞれの国・地域の民衆自身の力である。
- 1945年以前の日本にも、自らアジアの支配者となるのではなく、アジア民衆と連帯し、アジアを植民地支配から解放し、植民地支配そのものをなくすための、もう一つの道があったはずだ。
このような観点から、今回から何回かにわけて、フィリピン史およびフィリピン―日本関係史を切り口に、戦前の日本による戦争と植民地支配について考えてみたい。
(連載第1回はコチラ→ https://access-jp.org/archives/column/m-war-01 )
アメリカ大陸でのスペイン植民地支配とラス・カサスによる批判
近代以降、戦争の主要な側面の一つは、欧米諸国によるラテンアメリカ・アジア・アフリカへの侵略戦争と植民地支配であり、フィリピンは16世紀以降スペインおよび米国による侵略と植民地支配をうけた。
15世紀末から始まる大航海時代、スペイン・ボルトガルは重商主義的な植民地拡大政策をとった。国富の増大=金・銀の保有量の増加という考え方に基づき、金鉱や銀鉱の開発ないし香辛料などの特産品を獲得・販売することで金・銀を入手するために植民地を必要としたのである。
1492年にはコロンブスが「新大陸を発見」する。アメリカ大陸におけるスペインの活動は、翌年のキリスト教徒による植民から始まった。1501年にはインディアス総督を置き、03年にはエンコミエンダ制が施行され,同時に本国には新大陸通商院が設立され,植民地支配の体制が確立した。エンコミエンダ制とは、新たに「発見」された土地を征服した者(コンキスタドール)の功績に応じて一定の土地とインディオ(先住民)に対する支配権を認め、インディオのキリスト教への改宗を委託すると同時に、彼らから徴税し、彼らを労働力として使役する権限を与えた制度で、そうした権限を与えられた者はエンコメンデーロと呼ばれた。
エンコメンデーロによるインディオへの暴虐は惨を極め、1537年にはローマ教皇パウルス三世が「インディオは奴隷ではなく、人間として扱わなければならない」という趣旨の大教書を発布するに至っている。とりわけ、スペインが押し進める新大陸征服の正当性を否定し、被征服者インディオの擁護を推進した人物として、スペイン人聖職者バルトロメ―・デ・ラス・カサスがいる。彼は、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著すことで、アメリカ大陸で何が行われているのかを暴露し、エンコミエンダ制の即時廃止を訴えた。
もともとラス・カサスはコンキスタドール(征服者)として新世界へ渡り(1502年)、エスパニョーラ島やキューバ島で数々の征服戦争に参加し、論功行賞としてインディオの分配に与り、植民者としての開拓事業にも携わった。しかし、同国人の進める征服戦争の非道な実態とエンコミエンダ制における先住民インディオの悲惨な状況をつぶさに目撃するに及んで「回心」を経験し、ドミニコ会に入会(1523年)、以後帰天するまで一貫して、征服戦争の全面的禁止や偽装奴隷制度と変わらないエンコミエンダ制の即時撤廃を訴える活動に挺身する一方、数多くの論策や記録文書を執筆した。
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫版「解説」、2013年、P241
ラス・カサスの『報告』から少し引用してみる。
エスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカのある島)は、……インディアスへ渡ったキリスト教徒が最初に足を踏み入れ、住民に甚大な害と破滅をもたらしたところであり、また、キリスト教徒がインディアスでまっさきに破壊し、壊滅させた場所でもある。/……キリスト教徒はまずインディオから女性や子どもを奪ってかしずかせ、虐待し、さらに、インディオが額に汗水流して手に入れた食物を取り上げて食べてしまった。……インディオが差し出す食物はいつもわずかであったが、それというのも、ふつうインディオは日々生きていくのに必要な量の食物、それも、少し働けば手に入る量の食物しか手元に持っていなかったからである。インディオは10人家族が一か月食べて暮らすのに十分すぎるほどの量の食物を三世帯分差し出しても、キリスト教徒はひとりで、しかも、わずか一日で、平らげてしまうのである。
同上、P35
キリスト教徒はインディオに平手打ちや拳骨をくらわしたり、時には棒で殴りつけたり、ついには村を治める人たちにも暴力を揮うようになった。そして、それが嵩じてキリスト教徒の隊長の一人はエスパニョーラ島で最大の権勢を誇った王に対して、その妻を強姦するという、きわめて無謀かつ厚顔無恥な振る舞いに及んだ。その時以来、インディオはキリスト教徒を彼らの土地から追放しようと策を練り始めた。彼ら武器を手に起ちあがったが、武器とは言え、まったく粗末なもので、攻撃するにも迎え撃つにもほとんど役に立た」ないようなものであった。「キリスト教徒は、(中略)子どもや老人だけでなく、身重の女性や産後間もない女性までも、見つけ次第、その腹を裂き、身体をずたずたに切り刻んだ。それはまるで囲い場に閉じ込められた子羊の群れに襲いかかるのと変わらなかった。
同上P36-37
こうした、読んでいて胸の悪くなるような非人間的所業――カリブ海の島々、中米および南アメリカ北部地域で行われた――に関する報告が文庫版約200頁にわたり延々と続く。
ラス・カサスによれば、最初の40年間で1200万人以上のインディオが殺されたという(同上P12)。後年、数字が誇張されている、あるいはインディオ死亡の最大要因は天然痘・麻疹・チフスなどの疫病であるにもかかわらず、全て侵略戦争とエンコミエンダ制にその原因を求めているなど、『報告』に対する厳しい批判が提出されたりもしている。だが、それらの「事実」があったとしても、スペイン人による戦争とエンコミエンダ制の下での暴虐をだれも否定することはできないだろう。
スペインによるフィリピンでの植民地支配
1519年、マゼランがヨーロッパから東洋の香料諸島(モルッカ諸島)への西回りでの渡航ルート発見を目ざして旅立った。マゼランはポルトガル人であったが、スペイン王の信任を得、スペイン船5隻の艦隊、237人の船員を率いてスペインを出発した。艦隊は商船でもあり、軍艦でもあった。5隻の大砲が合計で71門、火縄銃50挺、槍1000本、兜と甲冑100組、それぞれに360本の矢をつけた大弓60張などを装備していた。マゼランは南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を「発見」して太平洋を横断し、1521年3月フィリピンのサマール島の南にあるオモンオン島に上陸した。一行はさらにセブに向かい,住民を服従させようとしたが失敗し,マクタン島で首長ラプ・ラプの軍勢と交戦中に殺された(侵略者と闘い勝利したラプラプは、フィリピンではナショナル・ヒーロー(国民的英雄)とされている)。マゼラン一行はその後香料諸島に向かい,そこで香料を積荷したのち、22年9月スペインに戻った。
その後3回のフィリピン遠征が失敗した後、1565年、スペイン人ミゲル=ロペス=デ=レガスピが率いる遠征隊がフィリピンの植民地化を開始した。レガスピは、フィリピン諸島からニューギニアにいたる東インド諸島に居留地を設立することに成功したら、報奨金の他、貿易や採鉱、真珠採取場の特許を与えられることになっていた。
航海は大きな危険を伴うが、しかし巨万の利益が期待される冒険事業であった。富に対する渇望が、スペイン国王から船隊の最下級の水兵にいたるまで、人々をこのような遠征に駆り立てた一番の動機であった。かくしてレガスピは、単なる名誉ではなく、征服者として巨万の富を追求することとなった。
レナト・コンスタンティーノ『フィリピン民衆の歴史Ⅰ』井村文化事業者発行、勁草書房発売、1978年、P58
その後スペインによるフィリピンへの支配は19世紀末まで約330年続くことになる。
スペイン支配勢力による搾取
植民地フィリピンにおけるスペインの支配勢力は、レガスピのような最初の征服者たちで徴税権などを認められたエンコメンデーロ、スペイン国王から派遣された行政庁の役人たち、そしてキリスト教カトリック教会諸派の修道士たちであった。彼らは、フィリピンの先住民から文字通り搾り取るために暴虐の限りを尽くした。
スペイン支配勢力による先住民の搾取は、当初、主に徴税、強制労働や徴兵、生産物の強制売渡しなどの方法を通じて行われたが、後に教会や政庁有力者への土地の集積と大農場におけるプランテーションの進行、商品経済の浸透につれて、小作料の徴収や高利貸しなどが付け加わることになる。
エンコメンデーロやスペイン政庁は、19歳から60歳までのフィリピン人男性全員(一部の特権層は免除された)に人頭税を課した。税金を支払わなかったり、支払うことができなかった人は、拷問にかけられ、投獄された。山に逃げた人もいたが、スペイン人は処罰として家を略奪したり、焼打ちにしたりした。
また、首長とその長男を除く16歳から60歳までの男子は、人頭税に加えて年間40日間の夫役(強制労働)を課せられた。
強制労働によって男たちが出て行った村は荒廃した。夫役労働者にはほとんど賃金の支払いがなかったので、彼らの生命を維持するために、それぞれの村で月に一人当たり4ペソ相当のコメを支給しなければならなかった。男たちがいなくなって労働力不足を生じている村落に、この負担は二重の苦しみをもたらした。労働力不足は田畑の荒廃を意味した。こうして多くの住民が飢えで死んでいった。
同上、P70
フィリピンで布教の任についていたある神父は、1583年に国王に充てた覚書の中で、貢税の徴収について次のように述べている。
……もしも首長がエンコメンデーロが要求するだけの金を差し出さなかったり、エンコメンデーロが居住すると主張するインディオ(フィリピン原住民のこと-引用者)の数だけ貢納を納めなかった場合は、彼らはこの気の毒な首長を磔にしたり、手枷をかけたりします。――エンコメンデーロたちはみな、税の徴収に出かけるときは手枷を持ってゆきます。そして首長たちが要求されただけのものを全部差し出すまで鞭打ちし、拷問にかけます。首長自身が現れない場合は、往々にして首長の妻や娘が捕えられます。私が申し上げました拷問の方法で死んだ首長がたくさんおります。……貢納の徴収をしていた男が……首長を……磔にして殺しました。そして彼の両手を縛って吊るしました。また私は、あるエンコメンデーロが――ある首長が貢納の支払いに当てる金も銀も布も持っていなかったので――彼が支払うべき9人分の貢納、9ペソの代償として、彼から一人のインディオを奪い取り、それを船に乗せて35ペソで売りとばした、という話を聞きました。彼らは子どもや老人、それに奴隷から貢納を取り立てています。貢納のために結婚しない人が沢山いますし、自分の子どもを殺す人もいます。
同上、P64
1602年、別の神父はスペイン国王に対し、強制労働や生産物の貢納についての弊害について次のような書簡を送っている。
インディオたちは夫役を命ぜられると、山でスペイン人の残酷な扱いに耐えながら、木を切ったり、木材を運搬したりしないで済むように、負債をして、高い利子で金を借りるのでした。そして自分の代わりに他のインディオに行ってもらうために、自分の当番になっている月の交代料として、6ないし7レアルの金を身銭を切って支払いました。二分の一アローバの油を収めるよう賦課された男が、もし自分の収穫でそれを賄えない時は、収穫のあった金持ちの所に行き、もしそれを購入する金を持っていない時は、金持ちの奴隷になるか、高い利子で金を借りました。このようにしてこの国は10年の間に凄まじいまでに荒廃しました。山に逃げた者もあり、奴隷になった者もありました。多くのものが殺され、残った者は疲れ果てて窮状をかこっていました。
同上、P71
さらに、バンダーラと呼ばれた、スペイン政庁への生産物の強制売渡し制度がフィリピン原住民を苦しめた。州ごとに年間割当量が指定され、州の割り当ては各町に再分割された。
政庁は財源不足を訴えていたので、バンダーラは実質的には没収を意味した。住民が受け取ったものは、めったに回収できない約束手形だった。弊害をいっそう大きくしたのは生産物に対する政庁の決定価格が市価より定額だったので、自分の生産物で売渡し割当量を満たすことができない者は、政庁に安い価格で売却するために市価の高い生産物を購入しなければならなかったことである。もっとも、政庁はこの安い価格でさえめったに支払ったことはなかった。
ねずみの害や旱魃で穀物がだめになった時にも、原住民は籾を購入してまで、政庁に掛け売りで差し出さねばならなかった。その上、スペイン人官吏はしばしば割当額以上のものを徴収して、差額を着服した。
同上、P72
フィリピン植民地化が開始されたころには、アメリカ大陸におけるエンコミエンダ制は既に衰退に向かいつつあって、フィリピンでも17世紀前半には終了している。上で紹介した神父たちの報告もこうした動きに連動したものとみることができる。
が、エンコミエンダ制の衰退はスペイン人によるフィリピン先住民への搾取・収奪・抑圧の終了を意味しない。エンコメンデーロに与えられていた徴税権や強制労働を課す権限はスペイン政庁に引き継がれるとともに、カソリック修道会が新たな支配者として登場してくるのである。
以下、続く。
第3回はコチラ → https://access-jp.org/archives/column/m-war-03
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