現地スタッフのライフストーリー「私が32才で大学を卒業するまで」

グレイス・アン・エスパルテロ(32才)
トンド地区 子どもの教育プログラム担当

アクセスの現地スタッフとして、トンド地区に暮らす90人の子どもたちを見守り支えてきたグレイス。実は彼女自身、学びたくても学べない環境の中でもがき、夢の実現のために懸命に努力してきました。そんな彼女が、ライフストーリーを語ってくれました。

大家族で育ち3人の母に

私の名前はグレース・アン・エスパルテオ、32歳。13歳、11歳、5歳の3人の子どもの母です。13年間連れ添ってきたパートナーがいます。今も生活は大変ですが、大家族で育ったことを幸せだったと思っています。ひとつ屋根の下に多くの人が住む暮らしは平穏な生活とは言えませんが、その生活を通して「家族全体で」ということの本当の意味を学びました。

私はマニラ市トンド地区で生まれ育ちました。私を育ててくれたのは、ニンニクの皮むきというシンプルな生業でした。これは私のロラ(祖母)が始めた仕事で、彼女は皮をむいたニンニクをマニラ市のディビソリア地区(仕入れ問屋街)で売っていました。昼間は彼女の子どもたちがニンニクの皮をむき、夜になると祖母はそれを売りにいっていました。父は港湾労働者、母は専業主婦でした。父の仕事が私たち家族の生活を支える主な収入源でした。

成長の場は学校と教会

1997年、私は幼稚園に入り、簡単な絵や文字、色塗りを学びました。翌1998年、大きな学校で1年生になったとき、親の付き添いがないことを理由に泣いて教室に入りたがらない同年代の子どもたちがいるのを知りました。その頃、私は教会のユースセンターに入るよう勧められ、1年生から3年生まで聖歌隊に所属しました。毎週日曜のミサで賛美歌を歌いました。センターまでの道中は、いつも安全のため、大人に付き添われていました。

4年生から6年生の間は、教会で礼拝のための踊りを習う団体に所属しました。教会活動に熱心だった姉の姿を見て、私も参加する気持ちになったのです。ハイスクール(当時は中高一貫4年制)に入ってからもユースセンターに所属し、信仰面でも能力面でも成長できるよう努めました。その頃は「神様の近くにいれば、何事もうまくいく。神様は決して見捨てない。」と信じていました。

父の失業と私の病気

しかし試練が訪れました。ハイスクール1年目の時に父が失業し、正職員としての安定した収入が途絶えたのです。当時、姉はすでに大学生で、私や小学生のきょうだい2人も勉強を続けていました。父の収入がなくなり、学費や生活費、水道・電気・家賃の支払いがどうなるのか、不安でたまりませんでした。父の夢は、子どもたちに十分な教育を受けさせたいということでしたので、彼は昼はニンニクの皮むきをし、夜は港で荷運び(非正規)をして家計を支えました。私も学校がないときにはニンニクの皮むきをして、学費の足しにしようと働きました。

姉は大学を卒業し、私はハイスクールを卒業しました。しかし大学に進もうとしたとき、私は病気にかかり、進学を断念することになりました。母と一緒に半年ほど病院に通いました。皮膚に多くの傷ができて歩くこともできず、ひとりで動けない苦しい日々を過ごしました。泣きながら眠る夜もありましたが、神様のおかげで、少しずつ回復しました。その頃、父は港で、朝は清掃員、夜は荷運びの仕事をして働き、増え続ける出費を賄っていました。

大学を諦め、母になる。

健康が回復し始めた頃、私はもう一度、大学進学を考え始めました。しかし、就職して家計を支えてくれるはずだった姉が結婚することになり、学費援助が期待できなくなりました。私は大学の代わりに、政府の職業訓練コース(TESDA)で短期コースを受講し、2010年に製菓、2011年にハウスキーピングやコンピューター基礎・応用を学びました。そのときは、自分の知識が増えていくのが嬉しかったのを覚えています。

2011年末、再び大学進学を目指し、政治学科の入試に合格しました。しかし経済的な理由で就学を継続できませんでした。当時18才だった私は、何度も志した学業を諦めざるをえない悔しさから自暴自棄になり、どうにもならない現実への反抗心のようなものもあって、長女を妊娠しました。当時は母親になることは簡単だと思っていましたが、実際になってみて、とても難しく責任の重い役目なのだと気づきました。私は、自分よりも子どもを優先する生き方を学ばなくてはなりませんでした。

翌年、次女を出産しました。そのときはもう学校に戻る可能性はないと思いましたが、夢そのものを捨てたわけではなく、ただ一時的に忘れていただけでした。

もう一度学ぶチャンスが

2018年、パートナーとの間にすれ違いがあり別れを決断しました。その年の8月30日、思いがけない機会が訪れました。ドンボスコTVETセンターという非営利の職業訓練校に入学することができ、簿記のコースを受講し始めたのです。4年制大学でないとはいえ、このコースを卒業すれば、子どもたちのために新しい人生を始められると思いました。

その後、8か月後にパートナーと和解しました。10か月の学習を終えて5か月のOJT(実地研修)に出るはずでしたが、第3子を妊娠していることがわかり、再び卒業が遠のきました。その時は「私は卒業に縁がないのだろうか」と悩みました。それでも心を強く持ち、すべてのことには理由がある」と自分に言い聞かせました。

その後の数年間は再び母親業に専念しました。生活は楽ではありませんでしたが、支えてくれる家族がいることに幸せを感じていました。弱ったときは両親に相談しました。二人は「学業を続けたいなら応援する。子どもの世話をどうやっていくかを考えなさい」 「疲れたらいつでも帰ってきて休んでいいからね」と励ましてくれました。2021年、私は両親に「ドンボスコでOJTをしてコースを修了したい」と相談しました。そして7月、5か月間のOJTを始めました。

遂に大学進学、夢を実現。

同じ年、思いがけないチャンスが訪れました。9月末、職場の同僚から「4年制大学に無料で通えるチャンスがある」と教えられたのです。卒業を夢見てきた私は、OJTの最中でも迷わずそのチャンスを掴みました。

最初にこの知らせを聞いたのは私ではなく、パートナーでした。私は「まだ一つも終えていないのに、また新しいことを始めるのか」と怒られると思いました。でも彼は「本当にできそうか」 「やり遂げられるか」と私に尋ねただけで、反対せず、心配しつつも支えてくれました。私の夢を覚えていてくれ、反対せず受け入れてくれたのです。

朝はOJT、帰宅後は子どもの世話、夜は勉強。仕事と学業の両立は本当に大変で、ほとんど眠れない日も多く、学校や仕事の課題をこなすために多くの犠牲を払いました。それでも「大学を卒業する」という夢が私を突き動かしました。これがここ4年間の私の生活でした。

そう、この生活は本当に大変でした。でも、これは私の選んだ道です。2025年9月、私はついにコースを修了し、4年制大学も卒業できました。このことを心から神に感謝しています。夢と、それを実現しようという決意があれば、難しいことなどない。今の私は、そう感じています。

今になって思うのは、私が叶えたのは自分の夢だけでなく、私たちきょうだいが学業を終えることを願っていた両親の夢でもあったということです。

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グレイスは職業訓練校のOJTを修了した後、アクセスの現地パートタイムスタッフとなりました。以来、トンド地区で子ども教育プログラムを担当しています。どんな仕事も責任をもってやりぬくグレイスは、その勤務実績が認められ、現在はトンド地区副責任者としてフルタイムで働いています。

汚職がはびこり、コネがものを言うフィリピン社会では、「努力しても報われない」ことは日常茶飯事です。そんな中で「どうせ頑張っても無駄だ」 「貧困から脱け出すなんて無理」と無気力になっていく人は少なくありません。

そんな中でも、決して諦めず、粘り強く努力を重ねたグレイスを、私たちは本当に誇りに思います。彼女がアクセスで働いてくれていることで、きっと多くの奨学生や保護者が「自分もがんばってみよう」と励まされているはずです。

(了)

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