子どもたちの笑い声が もどった被災地 ~ピナツボ火山噴火からの 28年間の歩み~

今日のライター : 事務局長 野田沙良(のださよ)

被災地で農業復興事業や教育支援事業を担当してきた、現地スタッフの石川さん(1993年、被災地の子どもたちと)

ピナツボ火山の噴火から28年。2019年3月をもって、アクセスは火山被災地におけるコミュニティ復興支援事業に一区切りをつけました。今回は、この支援事業を長年担ってきた現地スタッフの石川雅国さんとともに、事業の歴史と成果をふりかえります。

―― ピナツボ火山の噴火は、「20世紀最大」と言われていますね。当時のことを聞かせてください。

最大の噴火は、1991年6月15日でした。大きな爆発音に人々は驚き、その後しだいに空が暗くなりました。火山灰はシンガポールでも観測され、火山から20キロ圏内では火山弾の落下もありました。米軍の駐留していたクラーク空軍基地では、屋根に積もった火山灰の重みで、軍の施設の一部が崩落しました。

ピナツボ火山が噴き上げた火山灰の総量は70億㎥にもなります。これは1000台のトラックが毎日10㎥ずつ運んだとして、全部運び終わるのに2000年かかる量です。この膨大な量の火山灰がピナツボ山系の中腹に積もり、それが雨期の雨により流れくだり、下流地域に流れていきました。これは「ラハール(火山泥流)」と呼ばれるものです。噴火当初は、堆積した火山灰の内部が400度の高温だったため、流れたラハールは植物を枯死させ、軽いやけどをした人もいました。

私自身も道路を流れてくるラハールから逃げるため、1キロ以上走って安全な場所にたどり着いたことがありました。また、ラハールの流れる川にかかる橋をオートバイで渡り終わって、振り向くと、橋が押し流されていた、という経験もあります。

―― 石川さんは、どういった経緯でフィリピンで活動されることになったのですか。

私がフィリピンに来ようと思ったきっかけは、私の父が第二次大戦中、ミンダナオで従軍していたことに遡ります。歴史を学んでいくうちに、フィリピンでの戦争によって50万人の日本兵が戦死し、100万を越すフィリピン人が命を落としていったことを知りました。この忌まわしい過去の事実は、私の心に重くのしかかり、フィリピンと日本の両国の間の平和のために貢献できることをしたい、と思うようになりました。

私が日本にいた頃、父のように農業をしていたのですが、機会があれば東南アジアで農業の発展のための仕事をしたい、と思っていました。そんな時、ACCE(アクセスの設立当初の呼称)から、ラハール被災地での農業復興事業のスタッフを求めている、という話を聞き、応じました。

―― 農業復興事業というと、具体的にはどんな活動をされていたのですか。

1993年4月にフィリピンに移動し、5月からプロジェクトを開始しました。最初にプロジェクトが行われたのは、パンパンガ州バコロー町にある1つの村でした。この村での5年間のプロジェクト期間中、毎年ラハールに襲われ、そのたびに作物が埋まってしまいました。しかし、こうした状況の中で、ラハールに埋まってからわずか3ヶ月で野菜の収穫ができることを示すことができたことは、貴重な成果です。また、ラハールの土砂に埋まってしまった耕運機を掘り出し、分解掃除して再び組み立てたのですが、その後5年間、プロジェクトに使うことができました。

1998年、より安定した条件の中でプロジェクトを続けるために、バコロー町よりも上流地域にあるポーラック町のミトラ地区にプロジェクト地を移転しました。しかしここも、10メートルのラハールに村全部が埋まっていました。

この新しい事業地において、私たちは野菜とマンゴを植えました。マンゴについては、スタディツアー参加者の協力を得て、120本の苗を植えました。乾期に1本1本水をやったり、カラバオ(水牛)やヤギなどから苗木を守ったり、枯れ草からの延焼から守ったり、最初の2年間は一番苦労した時期です。こうしてマンゴの世話をしながら、野菜の試験栽培を続けつつ、1ヘクタールの区画を使って、ティラピアという淡水魚の養殖も試みました。ラハールの砂地の土壌がフィルターの役割をして、水がきれいに保たれたので、ティラピアは他の地域よりも早く成長し、味も好評でした。

野菜、マンゴ、養殖の組み合わせにより、多くの貴重な経験やデータを得ることができました。この10年間(1998年から2007年)の、ラハール土壌での農業復興事業が、被災農民たちに希望を与え、1998年にはわずか4家族しかいなかったこの地区に、2007年には80家族が暮らすようになりました。

―― その後、子どもたちの教育支援事業に力を入れるようになりましたね。その経緯も聞かせてください。

政府によって、「ラハールがもう流れない」という宣言の行われたのは2000年のことです。以後、ミトラ地区には地元被災住民がしだいにもどってきて、農業を再開するようになりました。野菜等の栽培や養鶏なども行われましたが、最も盛んになったのはサトウキビと豚の飼育でした。

農民たちの生活パターンはいくつかあって、再定住地(被災後の移住地/フィリピンではresettlementと呼ばれる)から通ってきて農作業をする家族、あるいは夫婦で被災地に泊まりこみ、子どもを再定住地にいる親せきに預ける家族です。後者の場合、土日になると子どもたちが両親のところにやって来て、いっしょに過ごす、という姿がありました。子どもが小さいうちは両親と共に被災地で暮らし、子どもが学校に行くようになると、子どもだけ再定住地の親せきに預けたり、母親と子どもがいっしょに再定住地にもどったり、という光景も見られました。このころ、フィリピンの北部や中部の他の地域から仕事を求めて被災地に移住してくる家族も増えてきていたのですが、再定住地で就学させるという選択肢を持たない彼らにとっては、村に教育施設がないというのは、深刻な悩みの種でした。当時、ポーラックの街までの7キロの道のりを、歩いて学校に通っていた3人のきょうだいの姿が今でも思い浮かびます。

2007年、そんな子どもたちの状況を知った山田征さんという方が、ぜひ子どもたちの学びの場を作ってほしいとご寄付を寄せてくれました。そのご寄付で開所した幼稚園に、初年度は25名の子どもたちが入園したのですが、このうち9人が、7~12歳の子どもたちでした。住民からは、何キロも離れた学校に行かなくとも被災地で教育が受けられる、子どもたちと共に過ごす時間が増える、と歓迎されました。

被災後16年もの間、まったく教育施設が再建されなかった村に、アクセスが協力者の皆さんと一緒に建てた小学校
土石流の被災地の村で、砂地の道を歩いて学校から帰る子どもたち

―― その後、2018年まで続いた教育支援事業は、どんな内容だったのでしょうか。

翌2008年から2010年にかけては、山田さん他多くの方の支援を受けて4教室の校舎建設が実現。これを教育省に寄贈し、公立小学校の授業をスタートさせることができました。

2000年以来、ミトラ地区の人口はしだいに増加してきました。避難していた再定住地から戻ってきた元被災者と、仕事を求めて地方から移住してきた人々です。双方に共通しているのは、貧困層が多いという点でした。地元被災住民の場合、親せきの土地を借りて耕したり、家畜の世話をして暮らしている人がそうです。荒れた道路、やせた土壌、飲み水の確保が難しい、社会インフラが整っていない、という厳しい環境の中で、農業を営んで生き延びています。他方、移住家族の場合は、フィリピンの中でも経済的に厳しい地方から来ており、「被災地の厳しい環境は、私の出身地にくらべればまだましだ」と受け止めています。こうした中で、総じて住民の生活水準は低く、栄養不良の子どもも多く見られました。

そうした地区で2007年から教育支援事業をはじめたわけですが、2010年には、近畿労働金庫(近畿ろうきん)からのご寄付のおかげで、支援を拡大させることができました。保護者が調理を担う給食事業を中心に、教員の人件費や学用品配布にも取り組めるようになったのです。フィリピンのほとんどの学校では給食がなく、子どもたちはお昼に家にもどり、また昼食後に学校に行くのが一般的です。この給食事業により、子どもたちは昼休みに家に帰る必要がなくなり、朝ごはん抜きで通学していた子や、家が遠い子どもたちにとって、ずいぶん負担軽減となりました。

被災から24年を経た2015年3月28日。被災地の村に建てられた小学校の、最初の卒業式が行われました。被災後初の卒業生たちは、その後、経済的な理由で中学を中退した生徒も少なくありませんでした。しかし、何とか学び続けることができた生徒たちは、この3月に10年生(中学4年生)を修了することができました。

給食を楽しむ子どもたち
被災後初の卒業式

―― この数十年間をふりかえって、大きく変わったことは何でしたか?

ラハールに埋まった直後のミトラ地区は、電柱さえもすっぽりと砂に覆われ、そこに村があったとは想像できないような状態でした。それが今では、1300人以上の人々が暮らし、そのうち約400人が15歳以下の子どもです。学校ができてからは特に、子どもたちの元気な声があふれる活気に満ちたコミュニティになりました。

現在では、ブロック製造所と大規模養鶏場が多くでき、住民の7割の雇用を生み出しています。また、村を縦断する道路が完全舗装され、電気も、電力量の大きい送電線に付け替えられています。まだまだ暮らしにくい地域であることに変わりはありませんが、被災直後にくらべるとずいぶん改善されたと感じます。

それから、教育支援事業の成果は、ミトラ地区で基礎教育を受けられるようにしたということだけではなかったと思っています。学校建設、幼稚園の運営、給食、中退した生徒のための卒業資格取得支援、子どもの権利セミナー、出生証明書の取得…と、さまざまな形で子どもたちやその家族を応援してきました。そのことを通じて、「小学校を卒業できた」「中退していたけど、卒業資格を取得できた」と喜ぶ子どもたち、若いお母さんたちをたくさん見てきました。こうした支援により、自分自身についての自信や誇りを持てるようになった子どもや保護者が、今後コミュニティの中で前向きの生き方を広げていってくれるものと思います。

アクセスが実施してきた、子どもの権利セミナーの様子

―― これからミトラ地区は、どんな課題と向き合っていくことになるのでしょう。

行政サービスのほとんどが再定住地に行かないと受けられないことや、地元民が優遇されて地方から移住してきた人たちが不利な立場に置かれやすいことなど、いろいろと心配な点はあります。中でも、アクセスとして最も気にかけているのは、子どもたちが置かれている環境です。

被災当時とくらべれば教育環境は大幅に改善しましたが、児童労働や虐待、いじめ、体罰といった、子どもたちの権利が侵害される場面がなくなったわけではありません。私たちの働きかけによって、住民の意識は向上してきましたし、村議会が「子どもに優しいコミュニティ宣言」を採択したり、子どもの保護のための住民協議会が設立されるなど、少しずつ前進はしています。今後は、村議会と地域住民が協力して、権利侵害に直面した子どもたちを守り、問題を解決していけるようになってほしいと期待しています。

マンゴの木の下で、被災から現在に至るまでの苦労や成果を話す石川さん

噴火から28年。一度は村全体がラハールに埋まったミトラ地区にも、子どもたちの元気な笑い声が響くようになりました。それは、たくさんの人たちの協力と努力の積み重ねによって実現された変化なのだと実感します。

過酷な環境でも忍耐強く、助け合って暮らしてきた人々。できるだけ人々と同じ目線で考え、行動しようと努力してきた石川さん。寄付を届けてくださってきた日本の協力者の皆さん。子どもたちの笑い声の背景には、想いをもったたくさんの人たちの協力と努力がありました。

26年間(ポーラック町ミトラに事業地を移してからは20年間)の活動に、さまざまな形で関わり、支えてくださった皆さまに、本当に心からお礼申し上げます。