わたしに「子ども」ができた日に考えたこと。

わたしに「子ども」ができた。まわりの人が自分の「子ども」や「孫」をいかにかわいがっているか、日々わたしは目にしている。その様子を、ただただ微笑ましく見ているだけだったのだが、ひょんなことでわたしにも「子ども」ができて、その日は自分でもビックリするほど結構、動揺してしまった。

「子ども」への、最初のプレゼント。

わたしの「子ども」―名前は、エリカ。

フィリピンはマニラから車と船を使って8時間ほど離れた、自然豊かな小さな島―アラバット島ペレーズ地区。そこに、わたしの「子ども」エリカは、ご両親やきょうだいと一緒に暮らしている。今年小学5年生の女の子。

そう、エリカはわたしが産んだ子ではない。お世話をしているわけでもない。というか、会ったことがない。彼女はわたしの奨学生で、わたしは今年彼女のスポンサーになった、という訳である。

10月末のことだった。子ども教育プログラム(旧:奨学金)業務にあたっているわたしは、クリスマスを目前にしてサポーターが見つかっていない奨学生について、同じ業務にあたる事務局長の野田と何気なく話をしていた。そして、流れでふと、「じゃあ、わたしがサポーターになります」と言ってしまった。

ここ1,2年ほど、子ども教育プログラムにかかる業務の手伝いをしてきたが、自分が奨学生を支援するということにはならなかった。理由は、ほかにも支援を必要としている子たちはいるので一人の子だけを支援するのは気が進まないとか、アクセスの職員をしているしまぁいいかとか、わたし自身の生活にもそれほど余裕がないしとか、いろいろあったが、たぶん、「サポーターになる」と決めるきっかけとなるような機会が特になかった、というのが実際のところなのかもしれない。だが、なんとなくひょんなことで、「よし、なってみよう」と思い、それが特に頭でよく考えることもなく口に出てしまった。「きっかけが来ちゃったから、サポーターになった」という、きわめて気軽な感じだった。年15,000円という金額も、幸い今のわたしの日常生活を脅かすほどに高額な出費ではなかった。

エリカの住む、アラバット島ペレーズの海。

「サポーターになります」と口に出して、野田や横で聞いていた中村はびっくりしつつも「竹内さん、第一子?」と言った。まぁ、ちょっと早い子どもがもしいたら、そのくらいの年齢になっていることになるのか。「クリスマスプレゼントを用意したい」と思ったのだが、いざ自分がサポーターになってみると何を用意したらよいか、わからない(しょっちゅうサポーターさんのギフトを拝見しているのに)。「”先輩ママ”の中村さんに訊いてみたら?」と野田が言った。そう、中村はもう何年も奨学生を支援してきた「先輩ママ」なのだ。

エリカのプロフィールには、「趣味:Witing(書くこと)」とあった。何を書くんだろう?物語とか?日記とか?よく分からないけど、わたしがエリカと同じくらいの時は、ひたすら友達とお手紙を交換しまくっていたっけな。そんなことを思い出して、小さいノートとかわいいイラストのついたメモパッドを買って、家にあったクリスマスカードにメッセージを書いて、透明の袋にラッピングしてみた。大したものではないけど、我ながらなかなかいい感じのプレゼントができて、うれしくなった。

「子どもをもつこと/もたない」ことへの暴力

実のところ、エリカはわたしにとって「子ども」というよりは、わたしよりずっと若い、フィリピン在住のペンパルのような感覚だ。だからわざわざ「子ども」に例える必要はない。

一方、サポーターさんが奨学生に宛てている手紙を翻訳していると、「子どもは自立してしまったので、あなたを娘のように思っている」とか「もう一人、孫ができたみたいでうれしい」といったようなメッセージをとてもよく目にする。そして、奨学生を「子ども」のように見るという視点を、わたしは興味深く感じる。

「出産したい」「子どもを育てたい」「自分の子どもがほしい」
わたしは、こんなふうに思ったことが、生まれてこの方一度もない。そして、今後も「子どもをもつ」つもりがまったくない。でも世の中には、子どもがほしい人や、ほしいけれど様々な理由や事情で諦めざるをえない人もいる。いずれにせよ「子どもをもつ/もたない」ということ、そしてその理由は、とてもプライベートなものである。

ところが、このようなプライベート度合が高くデリケートな心情は、たびたび他人によって脅かされる。自分やパートナーの親からの「孫の顔が見たい」などという発言も、公人がテレビの中で「女性は子どもを産むことが(少子化に歯止めをかけるという点で)国への貢献である」といったような趣旨の発言も、わたしには本質が同じに聞こえる。個人の生活や事情を無視し、自分自身の願望・考え方や、「女性は子どもを産むべきだ」「カップルには子どもがいるのが普通」といった観念を強要しているにすぎない。

また、いわゆる「LGBT」と呼ばれる人たちの「生産性」に言及した議員らの発言が記憶に新しいが、これらの発言は「LGBT」の人たちのみならず、子どもを産まないと選択した人や事情によって産めない人へも、大きな傷を与える言葉だ。子どもの出産に限らず、障がいや病気、生きづらさを抱えることで働くことが難しい人、仕事・学校・家庭などのあらゆる場で、自分の力を発揮できずにつらい思いをしている人、「欠点」「短所」「不得意なこと」がある人、つまりは、生きているわたしたち全ての人間に対して、その生き方に鋭いナイフを突きつけられたようにわたしには聞こえた。

発言する人は、単純に自分の気持ちを垂れ流している、あるいは、自分の考えが”あたりまえ”で”まっとう”で”一般的”なものと思っている、ともすれば「この日本を/世界を救う」と考えているのかもしれないが、日常的にあふれている子どもの有無への言及によって、大きく傷つけられている人も少なからずいるのではないだろうか。わたしにとっては「傷」ではないけれど、時にわたしの生き方を否定されるような、生き方の自由を奪われかねないような暴力だと感じられ、とても腹立たしく思うのだ。

新しい「子どもをもつ」選択肢

「子どもをもつ/もたない」ことへの暴力に怒りを感じるとは言え、わたしは子どもをもつことはないだろうし、この先何年奨学生への支援を続けたところで、その子どもたちを「子ども」のように感じることは、おそらくないだろう思っている。

だが、奨学生を「子ども」のように感じてメッセージをしたため、フィリピンの「子ども」に思いを馳せることが、日々の暮らしを営むことに力を与えるのなら、それは新しい「子ども」の概念になってもいいんじゃないだろうか。

出産をしたくない人、子どもを育てるよりやりたことがある人、パートナーはいらないけど子どもはほしいという人、身体の事情で子どもを産みたくても産めない人、子どもを育てる時間的・経済的余裕が持てない人、子育てが終わり少し寂しさを感じる人、いろんな意味で「今の自分には子どもを育てる自信がない」と感じている人…. 性別を問わず、国籍を問わず、「親子」のように思える関係性をつくりたいと思うときに、その選択肢のひとつに「フィリピンにいる奨学生を、年間15,000円で支え、文通を通して交流を深め、お互いの生活を今より少しよいものにする」があっても良いのではないか。

たしかに、離れたところに住んでいて会えない環境であれば「子ども」にできることは限られるが、子どもにとって見守ってくれる大人は保護者のほかにもいたほうがいい。子どもを見守る存在が保護者だけになってしまう環境になるから、保護者が育児を家庭で抱え込みいっぱいいっぱいになりやすい。子どもだって、自分に影響を与える大人が保護者だけになってしまうといっぱいいっぱいになる。ならば、子どもの生活を少しずつ、たくさんの大人が見守れるようになれば、言い換えると、複数の保護者が一人の「子どもをもつ」ことが一般的になれば、同時に、一人の子どもが複数の「保護者をもつ」ことが一般的になれば、その子も保護者も安心できるのではないかと思う。

海をへだてたフィリピンに住む、そしてまず直接会う機会がない奨学生が、サポーターさんにとってどのような存在なのかは、人それぞれに違っている。以前コラム記事にした、松岡さんと吉井さんへのインタビューの中でも、奨学生とのかかわり方の違いが見えたっけ。エリカがこれから、わたしにとってどんな存在となっていくのかは分からないが、エリカのサポーターになったことで、色んなことを考えるきっかけになったことは、たしかだ。

(了)

「子ども教育サポーター」になりませんか?

今回、竹内がエリカを支援することとなった、「子ども教育プログラム」のサポーターさんを募集しています。

年間15,000円で、一人の子どもを1年間、学校に通わせることができます!サポーターの方には、支援するお子さんから、年2回、お手紙が届きます。

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