アクセスという職場:EpisodeⅡ/ 2.アクセスでのエンパワメント~職員・竹内の語り~

あなたにとって、アクセスはどのような存在ですか?「支援先」「ボランティアする場所」「居場所」「取引先・協力団体」・・・・

人それぞれにさまざまなとらえ方やアクセスとの関係性があると思います。

そこで業務を行う人間にとっては、アクセスは「職場」という側面を持っています。事務局職員が、職場としてのアクセスをどのように捉えているか、「アクセスという職場」と題して、連載します。

第4回は、 EpisodeⅡとして入職4年の日本事務局職員・竹内の語り(続き)です。

第3回(EpisodeⅡ)はこちら→  https://access-jp.org/archives/column/workplace-episode2-1

「エンパワメント」というのは、「持てていない力をつけることを支える・助ける」ということだと私は理解している。

そのように考えると、私はアクセスで大きく二つの点において「エンパワメントされた」ということができるように思う。

1.口を開くことができるようになった。

私はアクセスにいる3年の間に、「いやだ」「わからない」を以前よりずっと素直に言えるようになった。

第3回「1.仲間がいない。」の最後に述べたことにも関わるが、アクセスでは口を閉ざしたまま素直に受け入れることを強要されない。空気を読んで周囲に合わせたり、我慢して依頼や要望を引き受けることを求められていない、特異な職場といえると思う。それは、このような”職場暴露記事”を堂々と書けてしまっていることにも表れているだろう。

職場に関わらず、「やりたくない」「できない」また「わからない」という言葉を言いにくいと思うことが、私にはよくあった。家庭、恋人関係、友人関係、師弟関係、趣味のコミュニティ、特定の関係がない場や空間においても、自分が不快感や不安や疑問を抱くことはたびたびある。ところが、その人間関係や”常識”・”場の空気”といったものが頭をよぎり、「いやだ」「やめてほしい」「やりたくない」「できない」そして「わからない」などという言葉を飲み込んでしまう。どんなに些細な不快感や疑問でも、その人のアンテナが反応するのはその人だからこそ感じた感覚なのであり、「不快に感じた」「疑問に思った」という事実はなかったことにはならない。

その「なかったことにはならない」感じを口に出すことが、アクセスでは奨励されている。

だが、これを可能にするには、大前提として「声を上げたときに真正面から向き合ってもらえる」という信頼関係が存在している必要がある。「違和感を感じるけれど、経験が浅い私なんかが反対したら、変な目で見られたりしないだろうか?」「知らないことばかりの自分が意見を言ったら、生意気だと思われないだろうか?」という不安があれば、発言するには至らないし、意見を言ったり自分の話をしたらその後ひどいめに遭ったり、話半分に聞かれたり、「我慢が足りない」と精神論で片付けられたり、ぞんざいに扱われ馬鹿にされているような印象を受けたりするなどの経験をした者は、その経験が傷となり自分の気持ちや考えを口にするのを控えようとするのは、普通だ。

また、自治的な場に長くいるある友人には、「その場において『思いは声に出そう』『発せられた声には遮ることなく耳を傾けよう』というルールが、構成員で共有されていることが大切だ」と指摘されたことがあり、なるほどと思ったものだった。そしてルールが構成員で共有されるためには、ルールを改めてその場に明示することが大切だとも言われた。例えば、誰かが発言している最中に別の誰かがその言葉を遮って発言をし始めた時、「発言は遮らずに聴く」というルールを破ったことになるので、最初の発話者の言葉を最後まで聴くよう、つまりルールに従うよう促すということだ。

さらに、 アクセスで勤務する中で、野田さん・森脇さんというアクセスベテラン職員や、私より後から入職した中村さんやずっと若い学生のボランティアさんとの関わりを経て気がついたことは、アクセスにも「権力関係」があるということである。この「権力」というのは、役職や立場や肩書きというハードなもの以上に、知識・経験、そして単なる年齢の差といったソフトなものを指していて、厄介なのは「権力を持つ者」は放っておくとそれを身につけてしまい、「権力を持たざる者」がそれを意識し、(発言を控えるということも含めて)行動してしまうものらしい。

アクセスは口を開くことが求められている場である。「意見は口に出すべきだ」というのが自明な土壌である上、発言の内容をしっかり聞いてもらえるし、疑問や質問にも真摯に向き合ってもらっているように感じる。だが、権力関係も人間関係もある。現在の職場としてのアクセスは、その場の均衡を維持するのにまだ努力が必要とされ、気を緩めればいつでも崩壊しかねない危ういものに感じる。が、それはきっとアクセスに限った話ではないのだろう。

アクセスでは意見を口に出すことが良しとされていること、聞く側はしっかりと聴くこと、話す側は諦めずに伝えようとすること、などを「自明のもの」にするために、きっと、ことあるごとにそれを明示し、ルールを徹底し、空気のように存在する「権力関係」を見えるものにして、取り除いていく必要があるのだろう。

それは職員間のみならず、ボランティアさんとの関係、そしてアクセスの外でも、人と向き合って関係をつくっていくのに、私にとってとても大切な作業だと思う。自分が当事者でなくても他者の権力関係の作用が客観的に見て取れた場合、その場の一員である限り、その当事者性から逃げたくないと思うし、自分自身が知らぬ間に権力を行使しているかもしれないことを、いつも振り返って考えていきたい。

自分が口を開くことを覚えただけでなく、口を開くことで人と向き合い、一つ一つ丁寧に関係を築き上げていくプロセスをアクセスで学んだことは、時には涙し、時には傷ついたり傷つけたりしながら、自分の時間もほかの人の時間もたくさん割くことで、今、私の血肉となりつつある。

2.人には得手不得手があるということを知った。

私は、自分にも他人にも得手不得手があるということを、知らなかった。アクセスで専従職員になる前、前職で上司にそのことを指摘され、理解に戸惑い、目の前が真っ暗になって、心療内科への再通院と心理療法の開始に至ったのだが、治療を続けながら、アクセスでの業務を通して、初めてそれを実感を伴って理解した。

一つには、上司である野田さんや森脇さんが、私の仕事ぶりを見て、評価するべきところ褒め、私の特長や特技を指摘してくれた経験だ。評価されたことは、とてもうれしかった。ほとんどのことが初めて経験する業務だったので、自分に与えられた役割を果たせるように必死に取り組んでいたからだ。

だが、「特長/特技」という視点は、実はよくわかっていなかった。自分の取り組む業務は、野田さんや森脇さんを含めこれまでに担ってきた職員がいるわけだし、誰にでもできるものだと思っていた。さらに言えば、進学するにつれ私の周りには優秀な人たちが溢れ、私にできることは、他の誰かがもっとハイレベルでこなしていたし、私にはできないことをいとも簡単にやってのけてしまうので、基本的に私にはできないことばかりだと感じていた。したがって自分の「特長/特技」がわからないので、就職活動時には「自己分析」というものに全く手をつけることができず、随分困った。

そんな私に、人間の特長/特技や得手不得手というものを、衝撃的に感じさせた人が、アクセスに2人いる。

わたしにできること:クラシックギターの弦を交換すること。

一人目は、中村さんだ。中村さんは私の入職当初に担当した経理・会員対応業務のポジションを担うことになり、引継ぎを行うことになったのだが、当初、私が入職時点で確認されることもなく前提的に使っていたようなパソコンスキルを、中村さんは身につけていなかった。また、経理・会員対応の業務はマニュアルにまとめられており、特にパソコン操作であればそれを見ながら操作をしていけばゴールに到達するので、私の入職当初はマニュアルを渡されて質問のある時に野田さんに訊いては業務を進めていたのだが、中村さんに「マニュアルに沿って進めていってください」では業務を引継ぐことができなかった。

そこで初めて、「自分が当然のように使っているパソコン操作やビジネススキルは、当然のものではない」「マニュアルに沿ってひとつずつ作業を進めていくことができるというのは、一つの能力なのだ」ということを、私は知った。

その後も中村さんと一緒に業務を行っていく中で、中村さんを見て、自分を見て、また中村さんを見て、ということを繰り返すうちに、自分にはできることがたくさんあること、そして同じくらい、中村さんにできることがたくさんあることを見つけられるようになってきた。上に出した事例について言えば、中村さんは現在では見事にクリアしている。それを可能にした中村さんの特筆すべき力を端的に言うと、ものすごく忍耐強く、素直に、前向きに、愚直に頑張り続けることができる、ということだと思う。

わたしの苦手なこと:絵を描くこと。(この絵は、サポーターさんから奨学生へのシャボン玉のギフトをフィリピンに送るとき、液体が飲めないものだということをスタッフに伝えたくて、英語に加えて絵を描いて説明しようとした時のもの。)

二人目は、フェアトレード事業部の検品ボランティアのある学生さんである。彼女は数字にとても弱い人で、その日に検品したカードの枚数を「検品通過」「要修理」「不可」に分けて用紙に記入し最後にその合計枚数を書く際、合計枚数が20くらいになる足し算を間違えたり、紙に記入している枚数と実際にあるカードの枚数が異なっていたりすることがあった。

ある日、私はカードの数え間違いをしていた彼女に「ほんとに、数字が苦手なんだね」と言った。彼女の数字の苦手についてはお互いに共有していたうえ、私は彼女を馬鹿にしているつもりはなかったし、彼女の反応から彼女も「私に馬鹿にされた」と受け取ったわけではないだろうと感じていた。だが、自分の苦手なことを人に改めて指摘されるなんて、不快感やショックを感じさせてしまったのではないか、と後から思い返し、なんてひどいことを私は言ってしまったんだと反省した。

それからどのくらい後のことだったか、ある時カードの枚数を数えて記入する彼女の様子をなにげなく見ていて、彼女が一度数え、紙に記入し、今度は、左手に束を持ち右手で一枚一枚机の上に置きながらもう一度数えて確認していることに気がついた。元々していた彼女のその行為に私が気がついていなかっただけなのかもしれないし、私の言葉が彼女をそうさせたのか、そうではないのか、全くわからないのだが、その姿を見てなぜかぐっとこみ上げるものがあった。

正確に数えられない人を見て、「数もまともに数えられないのか」と呆れたり、馬鹿にしたりするような言動は、「数を数えることは簡単なことだ」「数えるという作業は間違うことなく誰にでもできる作業だ」という考えが前提にあるのだと思う。私はそんな考えを前提にして、「自分にできることはほかの人にも当たり前にできる」「私にできることができない人は、劣っている」と思って生きてきたのだろうし、それはこれまで私の言動の端々に現れ出ていたにちがいない。本当に、向き合うのが恐ろしい事実だが、心療内科の先生にも指摘されたことがある。きっと、これが私なのだ。

だが、「数を正確に数える」というのが苦手という彼女に出会い、それが誰にでも当たり前にできることではなく、家庭や学校などで身につけてきた一つの能力であること、そして学んできたけれど苦手を感じる人もいるということを知った。そしてそれは、自分が今行なっている/行なっていないあらゆる動作・発言・思考・習慣に当てはまるということに気づかされた。

中村さんやボランティアさんは、自分の苦手や持てていない力をどのように克服できるか、自分で考えてそれを試し成功させている。「解決策を自分で考える」「トライして、失敗は検証して、あきらめずにまた試してみる」というのは、彼女たちの持つ力の一つだと言えるだろう。だから、私の存在が彼女たちに影響を与えているのかどうかはわからない。

だが、少なくとも私は、彼女たちを含めたアクセスの人々と出会い仕事をしていく中で、それまでわからなかった自分の得手不得手に、一つずつ気づくことができるようになってきている。そして自分にも周りの人にも得手不得手があることを知り、人間と一緒に生きていくことに希望を見出せるようになりつつある。それは、私がこれからも生き続けていくための力を身につけさせてもらった、つまりエンパワメントされたということに他ならないと思う。

(続きます)

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